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えりもの伝説

「金の船」が眠る天狗山 ニカンベツ近浦

    • 絵
      北海道歴検図(荷寒別)北大図書館北方資料室蔵
えりもと様似の境を流れるニカンベツ川。

この川を海岸より20キロ程入った奥地に、天狗山と呼ばれる665メートルの山がある。

昔この地に住んでいたアイヌたちは「金の船」を作り、それを宝物として誇っていた。

文献によれば、「文化元年、当時のニカンベツ川上流には30名程のアイヌが住んでいた。」と記されている。
このコタンに美しいメノコが住んでおり、村の若者は皆この気立ての良い娘に思いを寄せていた。

しかし娘は、保老泉(幌泉)の山奥に住む人間の化身をした熊の兄弟の弟、サルイサンと結婚した。

当時、結婚式には、それぞれの家の宝物を交換したり、見せ合う風習があって、この時コタンの宝「金の船」を見せたのである。

この噂が貧乏な他部落のアイヌや和人たちの耳にも入り、これを盗もうとする者が後を絶たず、ニカンベツアイヌを悩ませていた。
そこで彼らは、相談の末にこの辺りで一番高い山の頂上に埋めることにした。

しかし、これを聞きつけた心よくない者たちが、ここぞと思い場所を掘り切り崩し、いつしか山の頂上は、天狗が空を眈んでいるような姿となってしまった。

やがて、和人の勢力が強まり、アイヌたちはその「船」を掘り出すこともできないまま、一人また一人と、コタンを追われて行った。

彼らが去ったあと、この宝を掘り出そうと山に入った者は、生きて戻るのは稀で、帰ってきても狂い死にをするという噂とともに、誰言うこともなくこの山を「天狗山」と呼ぶようになったのである。

文明が発達した今日でも、漁師はこの山を目印として漁を続けており、「金の船」はコタンの夢を乗せたまま、永遠に眠り続け、いつの世までも語り継がれることだろう。

*えりも町役場 商工観光係作成 「えりも拝見」 より引用

襟裳大菩薩と白鼠

    • 絵
エリモはアイヌ語であり、鼠(ねずみ)と訳し、襟裳岬は別名「ねずみ岬」と称する。

この語源は、昔岬一帯に棲息していた多数の白鼠(ねずみ)により成ると、伝えられている。

襟裳岬に内地人が移住しはじめた頃、古くから岬に住むアイヌ人、エリモミーランドという者が、ある日、岩の上を飛び交う白鼠にまたがった十一面大菩薩の姿に偶然出くわした。

それから度々、大菩薩のお告げを受けるようになったミーランドは、ある日、家の前の岩場に白鼠に乗った大菩薩の御尊像が流れ着いているのを発見した。

大変喜んだミーランドは、御堂を建て熱心に信仰し、その岩を神威岩と称し、しめ縄を張り「聖所」として奉り、子孫のエリモシローに受け継いだ。

シローが12歳の時、一商船がえりも沖合で濃霧と時化に遭い、「襟裳様」に祈願したところ、十一面大菩薩が現れ、程無く時化が静まり、難破を逃れたといわれている。

文化十一年(1814)渡島の嶋屋佐兵衛という者が襟裳岬の突端に神社を建立し、船中安全無難漁業自在自体健康を祈願し、御尊像は今も尚、大切に奉安されているらしい。

*えりも町役場 商工観光係作成 「えりも拝見」 より引用

「時化を知らせる“どんどん岩”」~庶野~

    • 波と岩
庶野市街地から約半里(2キロメートル)広尾寄りのところに、フンコツ(白浜)という海岸がある。

この沖合50メートルの地点に、すり鉢状の空洞のある岩があるが、それが「どんどん岩」である。

ここは釣りの名所と荒波で有名なところでもあり、この岩で命を落とした釣り人も数多い。

この岩から少し離れて、空洞の前に立ちふさがったように大きな岩礁がある。

その左右が沖合から打ち寄せる波の通路になっている。

空洞と通路は常に白波がたって不気味な感じがする。

沖合から打ち寄せる波がこの空洞の下部に打ちつけると、バフーという鋭く強い異様な音を発してはねかえり、その度に、波のしぶきが一丈(約1.2メートル)の高さに舞い上がり、岩肌を洗って流れ落ちる。

この響きから「どんどん岩」と名前がつけられたという。

打ち寄せる波の音には大小があり、この音が次第次第に高まるようになると、なぜか風向きが必ず東風(ヤマセ)に変わる。

こうなると付近の漁師は時化の前兆として警戒してきたという。

この空洞は海岸からではよく見えないが、沖合からはよく見える。

豊似湖の水に干潮があるといわれているが、これはどんどん岩と湖を結ぶ通路がどこかにあるからでは、と言い伝えられている。

*えりも町役場 商工観光係作成 「えりも拝見」 より引用

「ふしぎなヒヅメあと」豊似湖の伝説

    • 写真
      豊似湖
観音岳の山腹にある豊似湖は、馬のヒヅメの形をしておるが、あれには深いわけがある。

寛政十年(1798)というから、今から二百年以上も前のことだ。

近藤重蔵という偉い探険家が、千島を探検して帰る途中、この湖の上の山道を通った。

そうしたら突風が吹き荒れて、家来の一人がかわいそうに馬もろとも崖から転落してしまった。

そのときからだんだん湖はヒヅメの形に変わってきたんだ。

周りの石にもくっきりとヒヅメの跡のついたのがある。

豊似湖は不思議な湖だ。

水が増えたり減ったりするのが、潮の干満と関係があるようなもんだ。

もっと不思議なのは庶野のどんどん岩とどこかでつながっているとも伝えられていることだ。

*えりも町役場 商工観光係作成 「えりも拝見」 より引用

「100人の船乗りたちの命を奪った一夜の時化」~百人浜と一石一字塔~

    • 写真:百人浜
百人浜は広々とした砂浜で、まん中に一石一字塔が建っている。

この浜と塔とにまつわる話は、いろいろ伝えられている。

百人浜という名前はずいぶん古くからあったようだ。

そうとう昔に書かれた書物にも、この名前が出ている。

どうして百人浜というようになったかは、こういうことらしい。

今から二百年ほど前、南部藩の御用船が東エゾ地に向かう途中、大暴風雨に遭い、この沖合いで遭難したそうだ。

そのとき百人余りが乗りこんでいて、なんとか浜まではたどりついたということだが、なにせ秋も終わりころのこと。

寒さと飢えとで、とうとう一人残らず息絶えて、砂に埋もれてしまったということだ。

翌朝これを見つけた村の人たちは、このできごとを悼み悲しんだ。

そして、冥福を祈り、ここに供養の碑を建てたんだそうだ。

それから、だれともなく、ここを百人浜と呼ぶようになった。

いまも嵐の夜には聞こえてくるだろう。

あの海の底から呼ぶような、叫ぶような音・・・

*えりも町役場 商工観光係作成 「えりも拝見」 より引用

百人浜の由来の史実

「百人浜」という名は、江戸時代に描かれた地図や紀行文の中に記述されている。

当時の地名はアイヌ語をカタカナで表記しているが「百人ハマ」「百人浜」と記述されていることから、和人が名づけたものである。

百人浜の名の由来には、南部藩士難破による餓死説、シャクシャインのたたかい(1669)のアイヌ惨殺説、金堀罪人処刑説などが諸説ある。

「元禄御國絵図」「松前島郷帖(1700)」、寛永年間(1624~1643)~正保年間(1644~1647)の作と伝えられる「松前蝦夷図」に記載されていないことから、「百人浜」という地名が成立したのは、17世紀後半から18世紀にかけての時期と考えられ、文化5年(1808)の「東蝦夷地名考」、文明3年(1783)の「赤蝦夷風説考」に記述されている金堀罪人処刑説が有力である。

「サルイサンの血を引くもの」~アイヌの伝説~

    • 森のなかの写真
むかしむかし、幌泉の村に一人の美しいアイヌ娘がおった。

この娘は顔がきれいなだけでなく、とても気だてのよい娘だった。

コタンの若い者たちは、みなこの娘に思いを寄せて、ひそかに悩んでおったそうな。

しかし、娘は、だれにも目もくれんかったんだと。

このころ幌泉の山の奥にはキムンカムイ(熊)の兄弟がすんでおった。

そして兄のトヤイピンナはやはり美しいアイヌ娘にほれておったんだと。

するとどういうわけか、トヤイピンナと結婚してしまった。

トヤイピンナは、それはもう喜んでおったとさ。

それを見た弟のサルイサンは「負けるものか」とばかり、ニカンベツの美しい娘を嫁にした。

この嫁もまた、たいへんきれいな娘だったそうだ。

やがて熊の血統を引いた子供が大ぜい生まれたと。

そんときからだ。山へ行って熊に会ったら、「わしはサルイサンの血を引くものだ」と叫ぶと、熊はスタコラ逃げて行くようになったのは。

*えりも町役場 商工観光係作成 「えりも拝見」 より引用

「和人とメノコの恋物語」悲恋沼伝説

    • 写真
寛文年間の頃、和人とメノコとの恋物語があった。

和人の名は、確かではないが、当時油駒場所の請負人であった、浜野久七の息子「久作」と伝え聞く。

メノコの名は「マエラ」と言い、今の苫別付近を居所としていた日高アイヌ一族の娘であった。

久作とマエラは、ふとしたことから思いを交わす仲となり、夜毎襟裳岬の陰で人目を忍んで落ち合うようになった。
しかし、彼らの清い恋も長くは続かなかった。

民族の争いはいつの世にも続く。

当時、勢力争いを続けていた十勝アイヌと日高アイヌの戦いが始まったのである。

また、久作たちは長い蝦夷地の生活を終えて、内地に帰る日が近づいたからであった。

二人は恵まれぬ恋を嘆き、あの世での再会を誓い、襟裳岬の砕け散る波の音を後にして西と東に別れたのであった。

苫別周辺には、永久の別れとなるこの日の船出を悲しみ、身も細まり眼を涙で曇らせ、見えぬ船を追う様に立つマエラの姿があったが、いつの間にかマエラの姿は無く、その後ぽっかりと沼が生まれたのであった。

それからは、誰ということなく悲しい恋の涙で出来た沼、つまり“悲恋沼”として云い伝えられ、棲む魚とて無く、秋風の吹く頃には悲しげなさざ波が立ち、一抹の淋しさは、悲涙のせいであろうか。

この沼にまつわる哀れな伝説である。

*えりも町役場 商工観光係作成 「えりも拝見」 より引用