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襟裳神社境内江戸時代建立の石碑群

襟裳神社境内江戸時代建立の石碑群(えりも町町指定文化財3)(平成14年3月20日指定)

襟裳神社境内に、手水鉢1基、狛犬台座2基1対、および石燈篭の1基があり、

それぞれの製作年・石材・大きさ・碑文は次のとおりである。

手水鉢(えりも町文化財指定番号3-1)

手水鉢

名   称:手水鉢

員   数:1基

製 作 年:嘉永三年(1850年)

石   材:花崗岩 

横×幅×高:55×38.5×39cm  

碑   文:表)奉納

        右)願主 讃岐粟島 升屋虎蔵

        左)嘉永三年戌 九月吉日

 

狛犬台座(えりも町文化財指定番号3-2)

狛犬台座

  名   称:狛犬台座

  員   数:2基1対

  製 作 年:江戸時代末

  石   材:花崗岩
右側台座(えりも町文化財指定番号3-2-1)

  横×幅×高:60×60×22cm

  碑   文:願主 ホロイズミ

        御場所 支配人 卯三郎 惣番人中
左側台座(えりも町文化財指定番号3-2-2)

  横×幅×高:60×60×22cm  

  碑   文:願主 ホロイズミ

        御場所 支配人 卯三郎 惣番人中

石燈篭(えりも町文化財指定番号3-3)

石燈篭

  名   称:石燈篭

  員   数:1基

  製 作 年:文久元年(1861年)

  石   材:花崗岩

  横×幅×高:60.5×60×122.5cm  

  碑   文:表)御神燈

        右)文久元年辛酉年八月

由来

これらの手水鉢・石燈篭が奉納されたのは江戸時代の末であり、ホロイズミ(現えりも町)は、昆布の主要な生産地として蝦夷地の中でも特に重要な場所の一つであった。この時代、松前藩は、蝦夷地の各場所を場所請負人に管理運営させるとともに、本州との間に北前船による交易を行なわせていた。

襟裳神社は強風が絶えず吹き、岩礁が沖合いまで続く海の難所であり、アイヌの神聖な岬とされるオンネエンルム(襟裳岬)の先端に場所請負人嶋屋佐次兵衛が文化十一年(1814年)に、建立した。社殿は、強風のため明治8年に一度移築し、さらに明治25~26年ごろ現在の字えりも岬の市街地に移築された。

 

嘉永三年(1850年)奉納の手水鉢にある碑文「願主 讃岐粟嶋 升屋虎蔵」は、現在の香川県三豊群詫間町粟島であり、江戸時代より海運が盛んな島で、蝦夷地との交易で栄えた島である。文政十年(1827年)粟島には88隻の船があり、船主が一船一石仏を寄進し、八十八ヶ所をめぐる島四国(遍路)が作られた。升屋も一石仏寄進しているが、虎蔵の文字は確認されていない。升屋虎蔵は、場所請負人に雇われた北前船升屋の有力者と考えられる。

狛犬台座には、奉納年代が刻まれておらず建立年を確定することはできないが、左右両台座には、同じ碑文「願主 ホロイズミ 御場所 支配人 卯三郎 惣番人中」が残っている。この「卯三郎」は、寛政十一年(1799年)に開削された猿留山道の沼見峠に所在する妙見様祠の碑文「願主 ホロイツミ御場所 請負人 杦浦嘉七 支配人 卯三郎 惣番人中」、および同じく沼見峠に所在する馬頭歓世音菩薩にある「願主 請負人 杦浦嘉七 支配人 宇三郎 世話人 周平 惣番人中」にある「卯三郎(宇三郎)」と同一名と推測できることから、この狛犬台座が建立されたのは、安政~文久に近い江戸時代末であったと考えることができる。

「支配人卯三郎」は、当時場所請負をしていた函館「福嶋屋」の有力者であると考えられるが、市立函館図書館が所蔵する「福嶋屋文書」などの古文書からは、「卯三郎」という名が現在のところ確認されておらず、歴史を残す貴重な資料である。

文久元年(1861年)に建立された石燈篭には、奉納者の名は刻まれていない。石燈篭は本来神社などの戸外に設けた照明などの灯火道具であり、軒先に吊るすもの、台上に設置するものなど多くの形式がある。襟裳神社境内に残る石燈篭は、もともと台座、脚石、笠、火袋、宝珠からなるが、台座、脚石、宝珠が残存しているにすぎない。これは、先述した襟裳岬神社の移築の経緯および強風による風化、破損によるものと考えられる。

石燈篭1基、狛犬台座(2基1対)にはえりも町の歴史を明かす碑が刻まれ、完形で残る手水鉢(1基)とともに、江戸時代東蝦夷地、幌泉場所の漁場開発の黎明期に活躍した人物を証する重要な文化財である。