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一石一字塔

一石一字塔(えりも町町指定文化財5)(平成14年3月20日指定)

一石一字塔

製 作 年:文化三年(1806年)

 

石   材:花崗岩 

横×幅×高:79.5×79.5×156.5cm

碑文

正 面) 梵字[バク] 一石一字塔

  

左側面)蝦夷東南百人灘者銕巌聳洌波涛對獄海霧倏怱離明輪工錯

     失方隅以故溺者最多或有同時日者豈非怪異乎八谷佐吉者

     南部人也管長干保呂泉年尚毎為傷之文化二年大家有命相  

   

 背 面)達此地與衆同志請余書冩妙經壽量品一石一字以追薦焉沙

     摩尼之館主田中氏隋喜衛護 筵奇哉昔時淪没一艢俄倒齋

     持施設法席矣鳴呼信徹無窮祥應頻朗豈猜來感乎余喜此事

     叉手頌曰

     因縁俟調□□威震東夷没溺長夜苦倏倒暁風吹戸關自闢悦

     頓□失頭疑祥瑞遽致感切餘堕涙碑 

 

 右側面)徳偶永無動直臻龍華籬

     字字現金佛輔佛化無涯

     文化三星在丙寅季秋中澣

     帰矕山第一世法印権大僧都秀暁 謹書

 

 基 壇)   保呂泉館舎

           管長

功徳主  書守

     譯人

     守者

 

読み下し)

 北海道の東南にある百人浜は、鉄のように硬い鋭い岩礁がそびえならび怒涛は山に向かうような大波であります。

 海霧は終始沸き出て周囲を覆い隠し、そのため船乗りたちもたちまちのうちに方向を見失ってしまうことが多く、このために遭難して溺れ死ぬ者が最も多いと言われている所であります。或るときは1日に数隻も遭難することもあり、そのことは珍しいことでも不思議なことでもありません。八谷左吉は、南部の出身の人ですが、幌泉支配人として長い間この海難事故に心を痛めていたのです。丁度、文化二年(1806)に時の幕府の命令を受けて私は、初めて仏教を広める為に、この地方に赴任して参りました。この地方の住民たちは、八谷左吉と同じく皆心を痛めていたので、私に妙法連華経第十六品如来寿量品(約2400字数)のお経を一つの石に一字づつ写経して追薦の供養を行なって欲しいと請われたのであります。

 様似の勤番所詰合人である南部藩士 田中定右衛門氏は、非常に喜んで法要を護衛することになりました。その時大変に不思議なことが突如起こったのであります。法要の最中に、昔、沈没していた船の帆柱がにわかに浮き上がって岸辺に漂着致しました。驚いて帆柱をうやうやしく運んできて法要の席に奉ったのであります。あ~信仰の心、仏に御心に達したことは明らかで疑う余地もなく、私はこのことを喜んで思わず合掌し、たたえて詩を詠んだのでありました。

 

 御心の御教えいよいよ整い熟しその御心は東北海道に布教伝播されました。

 溺死した者の霊魂永い間さまよいしその苦労今は暁の風のごとく吹き去りて自ら戸を開けるように悩みが急に取り除かれた感にうたれにわかにめでたい感じが全身を走り抜け、堰を切ったように涙がとめどなく流れ碑をぬらしてしまいました。

 

仏の御教えによる供養の功徳は永久に動くことなく、直ちに弥勤菩薩が説法する衆生済度の法会場に至り一字一字は金の仏を現し教化弘法のために果てしなく寄与することでありましょう。

 

文化三年旧暦九月中旬 帰郷向山第一世法師権大僧都 秀 暁   謹書

 

    功徳主    保呂泉舘舎

              管長(支配人 八谷佐吉)

              書守(帳役)

              譯人(通詞〈アイヌ語通訳〉)

              守者(番人)

 

  なお、碑文にある「沙摩尼之館主」とは、「シャマニ(様似)会所の勤番詰合人番頭で南部藩士田中定右衛門のことである。

由来

江戸時代、蝦夷地に和人が入り、東蝦夷地もコンブなどの魚場として開発されるようになった。蝦夷地と本州との交易は北前船によるものであり、帆を張り、風を利用しての航海であったため、悪天候に遭遇し遭難する船が多かった。襟裳岬は当時から風が強く、また波が高く、蝦夷地でも航海が非常に困難な海域であった。

 東蝦夷地に場所が開かれ、多くの和人が入ってくるようになり、また、ロシアの南下による北方警備の重要性が認識され、さらに、和人の心の拠り所として、アイヌの統制をも考慮し、幕府は東蝦夷地(伊達・様似・厚岸)に寺院を建立することを文化元年(1804年)に許可決定し、様似等澍院は文化三年(1806年)に建立された。幌泉場所は、様似等澍院の管轄であった。

 碑文を解釈すると、建立の意図は海難者の追善供養であることが明白であるが、ひいては法力により安全な航海ができるようにとの願いが込められているとも考えられる。また、当時のアイヌに対し、統制のために仏教の持つ荘厳さを印象づけるねらいもあった可能性がある。

 この一石一字塔は、建立時は、現在地より渚に近い位置に建立されたと考えられ、大正十二年(1923年)小越(現えりも岬地区)の青年団員により、現在地に移設された。現在、埋納遺構や礫石経等の遺物は確認されていない。

 一石一字塔の建立には、大法要が施行され、幌泉場所(保呂泉場所)の管長八谷佐吉らが全面的な支援をおこなったと考えられる。江戸幕府の東蝦夷地での統制を引き締める歴史的行為が幌泉場所で行なわれた物的証拠として、極めて重要な石碑である。